学ぶ事の目的1 意欲の核を作る事
読書やブログ、セミナー等に参加して学ぶ機会が多い。何の為に学ぶのだろうか?
My Life Between Silicon Valley and Japan:フューチャリスト宣言や茂木さんのことやはてなのことなどを酔っ払いながら書いてみる>>
「命を輝かせるためなら、何をやってもいいんだ」
そうか、僕が茂木さんと対談でシンクロしたのはこの一点ゆえだったのかもしれないなと思った。個としての資質とか傾向は、僕と彼は正反対なのだが、僕も
「意欲の核を持てるためなら(結局それは命を輝かせることになる)、何をやってもいいんだ」と思っているのだ。
そのためならオプティミズムだろうが、サバイバルだろうが、未来の創造だろうが、危機意識だろうが、何でも持ってきて、それで「意欲の核」が生まれずに苦しんでいる人の心が一つでも開けば、もうそれでいいや、と思っているっていうことかな。
ふと、梅田望夫さんのブログを読んで感じた。私の場合、とにかくいろんな事に興味を持つタイプだと思う。だから学ぶことの範囲も広くなってしまう。だけど、一番ナニを望んで学んでいるのか?まさに、意欲の核を作るために学んでいるような気がする。
- ホントに集中すべき使命はナニか?
- それに集中するためにはナニが必要なのか?
- その為に最も大事な生きる姿勢はナニか?
いろんな選択肢を学ぶ事で、サーチし、そして自らの文脈に作り替え、そしてチョイスしていく。素晴らしいアイデアに出会ったとき、これだ!とは思う。しかし、また違う素晴らしいアイデアに出会うと、これだ!が変わってしまう。チョイスしていく事は、可能性を切断していく事にも繋がる。勇気がいる。
切断していかない事が最大にリスクが高い事は分かっているが・・学ぶことで試行錯誤しながら、核はできていくという結論になってしまうのだろうか?学び、行動を行い、思いもよらない人との出会いがあり、再び新しいナニかを学び、その繰り返しで核は作られていくのだろうか?
梅田さんのようになかなか決められないなぁ。決めたいんだけどなぁ。
皆さんは、自分の核を決める決断をどうされているでしょうか?